ふんわり神経になる時に

鬱っぽさというものは、海馬という神経に負荷をかけている意識が作るのだと思う。

だったら、神経達に「もうそんなに張り詰めなくてもいいよ!」と声をかけるのがいい♡

  

私は、すごく感受性が強いのだけど、感受性の強さには、自己との対話は必須なのかもしれない。

なぜなら、本来の感受性の使い方は、脳と体を繋いでいく為の活動に、必須だから。

  

私は昔々に、自分のことを知る必要があったから、自己対話力をあげたいと思った。

  

幸せという感触とか、

満足という感覚とか、

安らぎという体感とか、

それを探していたから。

  

探すということは、「私は持ち合わせていなかった」事になるけれど、それをどこかに探す自分というのが、外側のせいにしていた。

外側のせいという発想は、いつも誰かの被害者という意識があるんだと気づいて、それを無くしていきたい!そう思った。

  

したら、その被害者意識というものの中には、悲しみという涙のわけがたくさんあって、それを知る事になったのだけど、私の中の涙のわけ達は、いつも外側に翻弄をされ続けていた【情け】から、罪という意識を生産し、その罪意識によって、私は自己犠牲という習慣を作っていたことを知った。

  

自己犠牲とは道徳心のようなもので、"いけないこと"という呪縛のようなものをたくさん抱えていた。

  

だから私は、幸せという定義から道徳心を見直してみた。

母親が、"子供の為に"というようなセリフの中に潜ませているような、優しさのように感じるその哀愁の中に、真意を見出したくなった。

  

それが分かったら、罪意識が承認欲求を作っている事も分かった。

  

私はこれだけの我慢をした、という怒りのようなもの、それが我の強さを生産し、誰かに強要をするような正義を作り出していた。

  

その人の正しさというものを謳う中には、涙と怒りという感情がある事が分かって、いろいろと、どうでも良くなった。

何よりも、自己対話という過程において得た効果というものは、誰かを憐れむ事に、自分の胸を痛めつけることが無くなったということ。

  

小さい頃から喘息を患っていた私のこの胸の事を、ようやく治癒してあげる事ができた。

胸にあるリンパという液体の潤滑さの仕組みを知ったら、空が晴れ晴れとしているような、そんな気分や体感も作ってくれた。

  

この長い長い治癒の道が終わりを告げている今、感情という名の幽霊達との対話の為に必要とした、神経のトレーニングのようなものを、緩めてみよう、そう思っている♡

  

神経質さにあった、自分や大切なものを守りたいその愛情。

それさえも、もう必要性を手放す時が来ていることを感じている。

  

本当に求めているものは、そこじゃなかったよね!なんて、亡くなった友人の夫と分かり合えた気がした。

死ななくても、生きながらに出口は見つけ出せるんだ、私はそれを知る人生が与えられたし、その道を無事に通過することができた。

  

それぞれの開放がありそうな今だね♡

  

鬱というものに出会っても、出口は必ずある。

【出口】って言葉が、最近私の口からよく出ているな〜!

  

おめでとうのハイタッチをしたりして、よくぞご無事で!って感じで、讃えあうこともあったりして。

  

感情と出会す道は険しいけれど、大きな魔物がいない世界は、すごく豊かです♡

自分の中に、魔物がいないといいだけだよね!

  

神経がゆるむゆるむ〜

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